2011年 05月 05日
世界文学を読みほどく……京大生気分で学べる楽しい集中講義 |
世界文学を読みほどく
池澤夏樹著
新潮社(新潮選書)
2005年1月15日刊
定価:本体1600円(税別)著
著者が京都大学文学部でおこなった夏期特別講義の講義録。7日間ぶっつづけで午前と午後の計14コマ。平易な語り口の講義はわかりやすく、『東京大学で世界文学を学ぶ』には歯が立たなかった私でも、最後まで疲れず読了できました。脱線めいたウンチク話もたっぷり楽しめました。
「読みほどかれた」世界文学は以下の全10作です。
▼スタンダール『パルムの僧院』(幸福感を味わえるお伽噺的物語)
▼トルストイ『アンナ・カレーニナ』(メロドラマであり、わかりやすく、結論がきちんとしている。今の通俗小説の原型)
▼ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(殺人事件の解析という構造の上に、人間の重大課題についての作者の思想を展開)
▼メルヴィル『白鯨』(単純なストーリーに載せた鯨の百科全書。世界はデータベースという世界観)
▼ジョイス『ユリシーズ』(1904年6月16日のある3人の一日を、神話・思想・言葉・歴史その他一切合切をつめこんで饒舌に物語った、西洋小説の形態的頂点。「作者は、素人の読者のことをあまり考えていません」)
▼マン『魔の山』(物語の舞台はサナトリウム。第一次世界大戦で傷ついたヨーロッパ全体がサナトリウム暮らしをしていた時代に書かれた、荷の重い成長小説[ビルドゥングスロマン]。)
▼フォークナー『アブサロム、アブサロム!』(あらすじに圧縮できない作品。歴史もあらすじに圧縮できない。主観を積み重ねて全体像を描くしかない。アメリカ「南部」とは何だったのか)
▼トウェイン『ハックルベリ・フィンの冒険』(自由な生活へのあこがれと市民生活の義務のあいだで引き裂かれたトゥエイン。人畜無害な『トム・ソーヤーの冒険』から一歩踏み出して、社会通念と個人の倫理の衝突と葛藤を描くが、答えは出せなかった)
▼ガルシア=マルケス『百年の孤独』(過去の小説の遺産から無縁のフラクタル構造に世界が驚愕。世界中で驚きの3000万部突破)
▼ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』(世界を動かしているのは陰謀?世界中がパラノイア?読んでるあなたもパラノイア?)
集中講義を受けてわかったことは、こうした“世界文学”は、素人がいきなり読んでも、なかなか楽しめるものじゃないということです。文学はそれが書かれた時代の世界のあり方、あるいは人々の世界の了解の仕方の反映であって、2011年の私が徒手空拳でページをめくっても挫折するのがオチのようです。
とくにメルヴィル、ジョイス、ガルシア=マルケス、ピンチョンなんか、いきなり読んでも、「なに、これ?」と思うにちがいありません。読もうなどと思わない方がいいです。(ただし、池澤先生の講義は、なぜかそういうものほど面白かったです。)
それほどぶっ飛んでいない他の作品についても、この本を読んで、なるほどそういう話なのか、それは知っていなければ楽しめないなあ、と思いました。こうした解説本であらかじめ作品の背景を知っておいたり、心の準備をしておいたりすることは無意味じゃないし、邪道でもないと思いました。
それにしても、いまや文学というものは、人間いかに生くべきかとか、一人の主人公の生涯を辿るとか、そういうものからははるか遠くに来てしまっているんですね。何をする場合でも、「それがボクにとって何のトクになるの?」とさもしい自問をしてしまう私が文学と無縁の人生を送っているのは当然だと、妙な安心感を覚えました。
この先、いわゆる世界文学を手に取ることがあるかどうかはわかりませんが、そのとき役立つ読み方の作法の初歩ぐらいはわかったような気がします。楽しい本でした。
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池澤夏樹著
新潮社(新潮選書)
2005年1月15日刊
定価:本体1600円(税別)著
著者が京都大学文学部でおこなった夏期特別講義の講義録。7日間ぶっつづけで午前と午後の計14コマ。平易な語り口の講義はわかりやすく、『東京大学で世界文学を学ぶ』には歯が立たなかった私でも、最後まで疲れず読了できました。脱線めいたウンチク話もたっぷり楽しめました。
「読みほどかれた」世界文学は以下の全10作です。
▼スタンダール『パルムの僧院』(幸福感を味わえるお伽噺的物語)
▼トルストイ『アンナ・カレーニナ』(メロドラマであり、わかりやすく、結論がきちんとしている。今の通俗小説の原型)
▼ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(殺人事件の解析という構造の上に、人間の重大課題についての作者の思想を展開)
▼メルヴィル『白鯨』(単純なストーリーに載せた鯨の百科全書。世界はデータベースという世界観)
▼ジョイス『ユリシーズ』(1904年6月16日のある3人の一日を、神話・思想・言葉・歴史その他一切合切をつめこんで饒舌に物語った、西洋小説の形態的頂点。「作者は、素人の読者のことをあまり考えていません」)
▼マン『魔の山』(物語の舞台はサナトリウム。第一次世界大戦で傷ついたヨーロッパ全体がサナトリウム暮らしをしていた時代に書かれた、荷の重い成長小説[ビルドゥングスロマン]。)
▼フォークナー『アブサロム、アブサロム!』(あらすじに圧縮できない作品。歴史もあらすじに圧縮できない。主観を積み重ねて全体像を描くしかない。アメリカ「南部」とは何だったのか)
▼トウェイン『ハックルベリ・フィンの冒険』(自由な生活へのあこがれと市民生活の義務のあいだで引き裂かれたトゥエイン。人畜無害な『トム・ソーヤーの冒険』から一歩踏み出して、社会通念と個人の倫理の衝突と葛藤を描くが、答えは出せなかった)
▼ガルシア=マルケス『百年の孤独』(過去の小説の遺産から無縁のフラクタル構造に世界が驚愕。世界中で驚きの3000万部突破)
▼ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』(世界を動かしているのは陰謀?世界中がパラノイア?読んでるあなたもパラノイア?)
集中講義を受けてわかったことは、こうした“世界文学”は、素人がいきなり読んでも、なかなか楽しめるものじゃないということです。文学はそれが書かれた時代の世界のあり方、あるいは人々の世界の了解の仕方の反映であって、2011年の私が徒手空拳でページをめくっても挫折するのがオチのようです。
とくにメルヴィル、ジョイス、ガルシア=マルケス、ピンチョンなんか、いきなり読んでも、「なに、これ?」と思うにちがいありません。読もうなどと思わない方がいいです。(ただし、池澤先生の講義は、なぜかそういうものほど面白かったです。)
それほどぶっ飛んでいない他の作品についても、この本を読んで、なるほどそういう話なのか、それは知っていなければ楽しめないなあ、と思いました。こうした解説本であらかじめ作品の背景を知っておいたり、心の準備をしておいたりすることは無意味じゃないし、邪道でもないと思いました。
それにしても、いまや文学というものは、人間いかに生くべきかとか、一人の主人公の生涯を辿るとか、そういうものからははるか遠くに来てしまっているんですね。何をする場合でも、「それがボクにとって何のトクになるの?」とさもしい自問をしてしまう私が文学と無縁の人生を送っているのは当然だと、妙な安心感を覚えました。
この先、いわゆる世界文学を手に取ることがあるかどうかはわかりませんが、そのとき役立つ読み方の作法の初歩ぐらいはわかったような気がします。楽しい本でした。
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by booktrain
| 2011-05-05 11:21
| ●歴史・文化